投稿者
四木信/OWL仕事研究室
関連サイト ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 人間当事者未来塾 人間からだいのち研究会 人間こころいのち研究会 ひきこもれ!こころ対話+ひらきなおれ!自分づくり 「じぶんづくり=こころづくり」を考える 「いのち」は「いのち」がつくる 「こころ」は「こころ」がつくる 立志創業のすすめ 四木信の還暦徒然想 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 最新の記事
以前の記事
その他のジャンル
|
石原孝二編著『当事者研究の研究』医学書院2013年
「はじめに・第1章」より抜粋編集/四木 信 2001年、北海道の浦河べてるの家で「当事者研究」は始まった。浦河の地で行われていた当事者研究は、精神障害を持つ当事者自身が、自分たちが抱える問題を「研究」するというものだった。この10年余りの間に、当事者研究は浦河べてるの家の活動を代表するものとして広く認知されるようになるとともに、日本の各地に当事者研究が広まり、当事者研究を行う団体が生じてきた。近年では韓国でも関心を持たれ、国際的な広がりを見せようとしている。 精神障害を持つ人たちが研究を行っていると聞けば、人はおそらくさまざまな疑問や疑念を持つのではないだろうか。現実と妄想の区別がつかない当事者が研究することがなぜ可能なのだろうか? 日常会話も成立しないような人たちがなぜ研究しているといえるのか? 当事者とはいったい誰のことなのか? 当事者研究はもちろん、通常の研究手続きに沿って行われるものではない。しかし、そこでは確かに研究といえるものが行われている。それは当事者の手記のようなものでもないし、当事者運動のように何かを主張するものでもない。研究というスタイルをとることによってしか表現できないものが、そこで示されているのである。 当事者とは、苦悩を自らのこととして引き受ける人 この当事者研究は独特の感染力を持っている。精神障害や他の障害を持つ当事者の間に広がりを見せていることがそのことを示している。しかし当事者研究が感染するのは障害者だけではない。当事者研究とは、苦悩を抱える当事者が、苦悩や問題に対して「研究」という態度において向き合うことを意味している。苦悩を自らのものとして引き受ける限りにおいて、人は誰もが当事者であり、当事者研究の可能性は誰に対しても開かれている。 1960年代の反精神医学や、70年代以降の当事者運動においては、当事者の知は専門知と対立的に捉えられがちだったが、当事者研究は必ずしも専門知と対立するものではないことに注意する必要がある。当事者研究は、専門知の成果を一応は受け入れながらも、その意味を当事者の視点から捉え直していく。専門知と対立するのではなく、しかし、その意味をずらしていく当事者研究の知のあり方は、これまでになかった知のあり方を提示している。 ・・・・・・・・・・ 「はじめに」より 当事者研究とは何か 当事者研究とは、障害や問題を抱える当事者自身か自らの問題に向き合い、仲間と共に、「研究」することを指している。当事者研究は、当事者が語りを取り戻すことによって、自己を再定義し、人とのつながりを回復することを促すという機能を持つ。 このような当事者研究はSST(Social Skills Training=社会生活技能訓練)や従来の自助グループの技法と密接な関係にあるが、それらとは大きく異なる特徴も持っている。また、当事者研究は治療方法や一般の科学研究とは異なる文脈にあるものの、治療や科学研究にインパクトを与える可能性を有している。 当事者研究の誕生・・・・・苦労を取り戻す 当事者研究は、2001年に北海道の「浦河べてるの家」で始まったものである。最初に、べてるの家の歴史について簡単にまとめておこう。 べてるの家は、1984年にソーシャルワーカーの向谷地生良が当事者たちと共に設立したものだが、その起源は精神障害回復者による「どんぐりの会」(1978年活動開始)にある。 向谷地がソーシャルワーカーとして浦河の地に赴任してきた当時(向谷地の赴任は1978年4月)、精神科病棟に入院することは、「浦河で暮らすなかでもっとも惨めなこと」だと思われていた。それはしかし浦河特有の状況ではなかったであろう。浦河に特有であったのは、地域全体が、過疎化の影響で生活に困難をきたしていたということである。医療従事者でさえも「住みたいとは露ほども思っていない」町に精神障害者は退院し、「社会復帰」することを求められていた。「入院」という状況か絶望的な状況である上に、復帰すべき地域社会にも希望を見出すことが困難であるという八方ふさがりの状況に、浦河の精神障害者たちは置かれていたのである。 しかし向谷地はこうした絶望的な状況そのものよりも、当事者たちが人としてのあたりまえの苦労を奪われた人々であることに問題を感じ取る。精神科医療の管理のもとで、精神障害者たちは悩むことや苦労することそのものか奪われていた。 向谷地たちが「苦労を取り戻す」ための手段としてこだわってきたのが、「商売をすること」だった。当事者による商売は1983年の日高昆布袋詰めの下請けから始まって、昆布加工食品の製造販売、ドキュメンタリービデオ・DVDの販売、書籍の執筆・販売など、幅広く展開されてきた。浦河での当事者たちの商売は、復帰先の地域そのものを活性化することを通じた社会への参入であった。 この商売へのこだわりは、当事者研究の下地を用意することにもなる。1990年頃、地域コーディネーターの清水義晴に教えられた「一人一研究」という考え方がべてるのメンバーの仕事の中に取り入れられ、販売方法や新製品の開発などに「研究」的なアプローチが広まっていく。商売におけるこのような「研究」マインドが、後に当事者が自らの病気を対象とする当事者研究が展開されていくための下地となっていった。 社会参加や就労体験ではなく、いきなり「商売をする」という発想はべてるならではのものである。ほかにもべてるは1991年に地域住民との交流集会として「偏見・差別大歓迎」集会を開いたり、1995年以降「幻覚&妄想大会」を毎年開催するなど、精神障害に関するタブーと偏見を打ち破るさまざまな活動を続けてきた。 べてるの家は、その活動を特徴づけるユニークなキャッチフレーズ(理念)でも知られている。「苦労を取り戻す」がその筆頭だが、ほかにも、「弱さの情報公開」「弱さを絆に」「降りる人生」「三度の飯よりミーティング」「手を動かすより口を動かせ」「安心してさぼれる職場づくり」「自分でつけよう自分の病名」「幻聴から幻聴さんへ」「それで順調!」「べてるに来れば病気が出る」などがある。一見まとまりがないように見えるこれらの理念は、弱さを絆に問題に向き合い、人とのつながりを回復する当事者の力を信じるという思いによって貫かれている。 当事者研究のはじまり 「当事者研究」は、こうしたべてるの家の活動や理念を土台にして生み出されてきたものである。しかし当事者研究は、べてるの家のスタッフやメンバーが意図的に立ち上げた活動ではなく、偶然生み出されたものだった。 当事者研究が生まれたきっかけは、統合失調症を抱え、親を困らせる「爆発」を繰り返すメンバー(河崎 寛)に対して、向谷地が「“爆発”の研究をしないか」と誘いかけたことだった。それは何か明確な見通しがあって出てきた言葉ではない。入院中にもかかわらず、親に寿司の差し入れやゲームソフトの購入を要求し、断られた腹いせに病院の公衆電話を破壊するという「爆発」の後のどうしようもない行き詰まりの中で出てきた言葉だった。しかし河崎は、目を輝かせて「やりたいです!」と答えたという。この当事者研究の魅力の一端は、「研究」という言葉そのものにあるようだ。 「自分を見つめるとか、反省する」のではなく、まさに「研究」するというところに、「冒険心をくすぐる」何かがある。 ★べてるのこうした活動はきわめてユニークなものだが、イタリアで一九六〇年代以降に展開され、精神病院の廃絶へとつながっていったバザーリアらの精神保健改革の運動にどこか通じるものがある。 こうして始まった当事者研究は、やがて『精神看護』誌(医学書院)に連載されることになるが、その内容の過激さは、雑誌編集部の内部でも波紋を呼ぶことになる。河崎論文は、爆発とはどのようなものなのか、どのような手順で爆発に至るのか、なぜ爆発するのか、爆発の処方箋は何かなどについて述べていくものだが、その爆発の内容は、とても笑っては済ませられないものだった。親を殴る、他の学生を殴る、食事中に茶碗を投げる、親の大事なものを壊して親を困らせる、住宅ローンが払い終わったばかりの自宅に放火する。このような「爆発」事例が淡々と述べられ、爆発のメカニズムと爆発への処方箋に関する研究の成果が綴られていくのである。 この原稿を読んだ編集者は、「河崎さんはこれだけのことをやっても反省していないのではないか」という疑念を口にする。しかし向谷地はこの疑念に対して次のように答えている。 「いいえ、それは逆なのです。つまり、彼は自分を見つめ反省しすぎてしまうことで、爆発してしまう。だからこそ、自分自身の爆発してしまう「つらさ」をいったん自分の外に出し、研究対象として見つめる(「外在化」する)というスタンスに、意味があったのです」。 「自分を語る」リスク べてるの家では、当事者研究の活動か始まる以前から「自分を語る」ことが活発に行われていた。自分の病気や問題に向き合い、自分の言葉で語ることが重要視されていたのである(「当事者研究」は当初「自己研究」と呼ばれていた)。 しかし、自分を語るという行為は、障害者ならずとも常にリスクが伴うものである。誰かが自分について語るとき、聞き手は、語りの内容はもちろんのこと、その語り方やタイミングにも注意を向け、語り手がどういう人間なのかを見極めようとする。自分について語るときには内容だけでなく、タイミングや語り方に、くれぐれも注意しなければならない。 たとえば、社会的に非難されるような事柄について報告するときには、注意が必要である。むやみに触れまわったりしてはいけない。「反省していない」と思われるリスクがあるからである。非難に値する事柄は、時と場所を選んで、しかも十分反省の姿勢を示しつつ、報告しなければならない。 『精神看護』の編集者が思わず口にした「反省していないのではないか」という疑念は、とりわけ「問題行動」の経歴を持つ精神障害当事者が「自分を語る」際に高いリスクにさらされていることを如実に示している。 他害行動や自傷行為、奔放な異性関係などについて当事者が語るとき、それぱ必ず懺悔風でなければならない。リストカットの傷跡は普段はなるべく見えないようにして、見せるときにはおずおずと差し出さなければならない。間違っても「またやっちゃうかも」などと言ってはいけない。あくまでも過去のものとして、深い反省のもとにもう二度とやらないという決意を見せつつ、語らなければならない。 しかし、医師などの医療従事者や支援者に対しては、進行中の「問題行動」について語ることが可能である。進行中の問題行動は、治療の対象であり、本来治療の文脈においてのみ、語ることが許されているものなのだ。問題行動が病気によるものであればそれはやむを得ない。しかし、それを治療の文脈以外で平然と語るならば、それは当人が「反省していない」ということなのではないか。まず反省して治療を受けるべきであり、治療が終わって初めてそうした行動について語るべきなのではないか。そのような、非難の視線を向けられる可能性がある。 プライバシー保護と語りの抑圧 精神障害を持つ人々は、社会から隠され、病気や症状、自分が抱える困難など、「自分を語る」ことを拒絶されてきた。しかも「自分を語る」ことに対するこの抑圧は、近年の「プライバシー保護」の傾向の中で奇妙な形で強化されている。 向谷地が繰り返し紹介しているエピソードに次のようなものがある。 精神保健分野の研究発表の場で、調査に協力した当事者の実名が記された発表資料が座長の権限により回収された、という出来事である。当事者は実名を出すことを了解していただけでなく、会場にも来ていて、発表者を激励してさえいた。しかし座長は、インタビュー内容が実名で公開されていることを問題視し、答えに窮した発表者は当事者本人に助けを求めることになる。 発表者は、「今日は協力してくださった当事者の方が来ておられますので、ご本人にも意見をうかがっていただければと思います」と座長に提案した。/座長に促されるように、私の横に座っていた本人が立ち上がった。緊張で震えながらマイクを持ち、言葉を必死にさがすかのような沈黙の後に、彼はこう言った。「今日はどうもすいませんでした……」/彼にとっての晴れ舞台が「謝罪」の場に変わった瞬間だった。「実名を出してもかまいません」という彼の意向が、発表者を追い込んだことへの謝罪であった。自分の病気の体験を恥じたり隠したりしないという彼の生き方は、座長の威厳に満ちた「学識深い見解」によって、いとも簡単に排除されたのであった。 座長の行為の前提には、精神障害は当事者の意向にかかわりなく公の場から隠すべきものであるという理解があるように思われる。このような理解のもと、研究発表の場において、当事者は「自分を語る」ことを禁じられ、名前を奪われる。研究発表という晴れ舞台では、名前を出して発表を行う発表者と、名前を奪われた上で語りの内容を紹介される当事者という構図が生じる。 研究の空間においてこうした語りの簒奪(さんだつ)か生じるのは、「研究」という空間が、治療のコミュニケーション空間と開かれた公共性空間が交錯する場所だからである。 ★治療の空間はもちろん必要であり、教育に従事する人間が、必要に応じて専門家への橋渡しをする義務かあることをここで否定しようとしているわけではない。ここで問題にしたいのは、当事者が治療の空間に囲い込まれるということである。当事者の語りは治療の空間に閉じ込められ、その語りはもっぱら治療目的に従属することになる。 コミュニケーション空間のこうした切り詰めは、治療の空間におけるコミュニケーションそのものにもネガティヴな影響を与える。たとえば当事者は、(薬を増やされることを恐れて)医者には「本当のことは喋らない」コミュニケーション戦略をとる可能性かある。 もちろん、人を対象とした研究や実験一般では、被験者の匿名性の保障は研究倫理上重要な前提であ。「プライバシー」とはそもそも、個人情報を秘匿することを意味するのではなく、個人情報を自分で管理する権利を意味するものである。したがって、本人の意志に反して匿名化することは、場合によってはプライバシーの侵害になるとさえいえる。 当事者研究以前にべてるの家で展開されてきた「自分を語る」という活動は、精神障害を持つ当事者が公共性空間の中に現れることを抑圧してきた構造を、正面突破しようとするものだったといえる。しかし、この正面突破戦略は、なおリスクと負担を伴うものである。「自分を語る」ことに伴うリスクと責任は、当事者個人に負わされたままになる。 当事者研究は、「研究」が持つ公共性空間への経路を、当事者がうまく利用しているのだと考えることができる。研究者のみが精神障害者の語りを公の場で語ることができるのであれば、当事者自身が研究者になってしまえばいいのだ。当事者が研究者になるという、この逆転現象によって、公的な場に現れる研究者と隠匿される当事者という構図は、根底から破壊されることになる。 共同行為としての「研究」 向谷地は『精神看護』誌の記事の中で次のように述べている。 彼に〈研究〉を勧めるときに言ったのは、「研究という形をとることで、生きづらさをかかえて爆発している多くの仲間たちを代表して、そういう仲間たちと連帯しながら、自分のテーマに迫っていけるのではないか」ということです。〈研究〉として爆発のメカニズムを理論立てて考えることで、内容が普遍化・社会化され、河崎寛さんがおこなった自分自身の研究でありながら、河崎寛さんを超えた研究となれるからです。 「研究」とはそもそも共同的な行為である。研究が共同で行われる場合だけではなく、単独で行われる場合でも、それは共同的な行為であるといえる。研究の内容が個人を超えた意味を持ち、他者に向けて発表されてこそ、研究の意義がある。 このように研究が共同的な行為であることによって、当事者研究を行う当事者は、「自分を語る」際のリスクと負担が軽減されることになる。単に「自分を語る」のではなく、「研究」として進めることによって、それは個人的な行為ではなく、社会的に有意義な共同行為であることになる。 べてるの家の当事者研究は、「自分自身で、共に」というキャッチフレーズ(理念)によって特徴づけられているが、このフレーズは、当事者研究が共同的な行為であることを端的に示している。当事者研究は、研究という共同行為を通じて、仲間や社会との「つながり」の回復をもたらす機能を持つのである。 フランクルの実存分析と当事者研究 べてるの家のもっとも重要な「苦労を取り戻す」という理念は、浦河で精神障害者が置かれていた状況──「苦労が奪われている」状況──の中から生まれ来たものであった。しかしまた、向谷地が精神障害者の「苦労が奪われている」と感じた背景には、フランクルの「実存分析」の影響かある。向谷地は「私自身が、意識的にも無意識的にももっとも影響を受けてきたのは、V・E・フランクルか創始した「実存分析」の視点であった」と述べている。 実存分析は第二次世界大戦中にユダヤ人としてアウシュビッツ強制収容所を体験した精神科医のフランクルか提唱したものであり、「責任の意識化」を主張することに特徴かある。責任の意識化とは、「人間か変えることのできない運命に対していかなる態度をとるか」ということに関して私たちが責任を持っていることを意識化するということを意味している。 変えることのできない運命に対して責任を持つとはどういうことなのだろうか? 私たちは、自分ではどうすることもできない状況の中に置かれることがある。ユダヤ人であるという理由で強制収容所に収容されたフランクルの状況はまさにそうしたものであった。しかしそこで課せられる苦悩に対して、どのような態度をとるのかに関して責任があるのだと、フランクルは主張する。「一人の人間がどんなに彼の避けられ得ない運命とそれが彼に課する苦悩とを自らに引き受けるかというやり方の中に、すなわち人間が彼の苦悩を彼の十字架としていかに引き受けるかというやり方の中に、たとえどんな困難の状況にあってもなお、生命の最後の一分まで、生命を有意義に形作る豊かな可能性が聞かれているのである」。 精神障害を持つ人たちもまた、自分ではどうにもならない状況に置かれ、苦悩を課せられた人たちであるといえる。発症へと至る状況は自分の力で変えることは難しく、自分ではどうにもならないからこそ、病気になるのである。そのようにして課せられた苦悩を自ら引き受けることを求めるのが、フランクルの実存分析の思想だということになるだろう。 もちろん「責任の意識化」は、精神障害を持つ当事者に病気の責任があるのだと主張するわけではない。精神障害はさまざまな要因の絡み合いによって生じるものであり、当事者個人の責任として理解できるようなものではない。にもかかわらず、当事者は、病気の苦悩を自らのものとして引き受ける責任がある、ということを主張するのが「責任の意識化」なのである。 ★フランクルは他方でまた、こうした困難な状況から距離をとるには、「ユーモア」が有効であることを示唆している。不安神経症に関してフランクルは、ユーモアが症状を客観化し、患者か自らを不安感情の「傍らに」あるいは「上に」置くことを可能にし、不安と「安らかに」交渉することができるようになるのだと述べる。向谷地自身が指摘するように、べてるの家での「弱さの情報公開」や「それで順調!」という逆説的なキャッチフレーズや「幻覚&妄想大会」などのユニークでユーモアに富んだ活動は、困難な状況においてその苦悩に向き合うことのうちに生の意味を読み取ろうとしたフランクルの思想に多くを負っている。 なおフランクルは強制収容所の体験をまとめた『夜と霧』で、次のように述べている。「〔自分が強制収容所の心理学についてある講演をしているのだと想像することによって〕私は自分を何らかの形で現在の環境、現在の苦悩の上に置くことができ、またあたかもそれがすでに過去のことであるかのようにみることが可能になり、また苦悩する私自身を心理学的、科学的探究の対象であるかのように見ることができたのである」。ここにも、当事者研究の理念との関係を読み取ることかできるだろう。 「責任の意識化」という実存分析の思想は、べてるの家において「苦労を取り戻す」という理念として結実するか、この取り戻しは同時に人とのつながりの回復であることか強調されていた。この強調は、「責任の意識化」が「責任の個人化・孤立化」となってしまうことを防ぐ重要なポイントである。 当事者研究のもっとも重要な理念である「自分自身で、共に」はこの意味において理解されなければならない。苦悩を自分自身で引き受けながら、その苦悩の引き受け方を仲間と共に研究し、その成果を社会へ伝えていく──これこそが、「自分自身で、共に」が意味するものなのである。 ・・・・・・・・・・ 「第1章」より ・・・・・ 以下広告 ・・・・・
by ningen-jibun
| 2014-12-15 12:32
| 当事者研究
|
ファン申請 |
||